幸せになりたーいと言ってる人のことがイマイチ理解できないのは、
僕がすでに幸せだから。
おまえみたいな幸せなやつに、不幸な人の気持ちがわかんの?
って言われると、
当たり前だけど分かるわけがないし、
相手にしたって、僕に分かった気になられても腹が立つだけだろう。
そういうやり取りをしても、本当に何も“現実さん”は変わってくれない。
絶対的に僕は幸せで、不幸な人は不幸のまま。
おまえのことなんか分かるかボケー
でも折角生きてるんだから、
幸せになればいいのになぁとも思う。
他人のことは他人のことだ、
自分のことじゃないんだから別にどうだっていい。
でも僕は言うほど冷たくなりきれない。
僕は、僕に関わった全ての人達の幸せを、
今も心のどこかで本気で願っている。
どうでもいいけどねとか言うけど、
心のどこかでは全然どうでもよくないと思っている。
この文を読みたいと思って読んだわけじゃない人でさえも、
幸せになってくれたらいいなぁと思う。
その人が仮に幸せでないならね。
幸福論なんて人それぞれだけど、
食事の後、若干お腹を壊してトイレに入ったとき、
僕はこれが幸せっていうものなんだろうなぁと唐突に実感した。
ふと“幸せ”を認識した。
うちの家はお金持ちでもないごく普通の家庭なんだけど、
少なくとも僕は幸せを感じている。
お金も幸せの1つの要因ではあるれど、
お金があれば幸せってわけでもないのが面白い。
統計的にも、所得が幸福度に比例するのはある一定値までとなっている。
それ以降は結局考え方の問題だ。
この“幸せさん”っていうものは、いろんな要素が美味しくミックスされて産まれた、
奇跡のような“当たり前”なんだと思う。
当たり前≠特別ね。
当然って意味ではないよ。
話は変わるんだけど、
玄関で今、愛犬のチャムじーさんが寝ている。
彼は目が見えなくて、ただの雑種犬で、ばっちり去勢もされていて、
だけど突然愛しくなって、
まだ生きている間に撫でておこうと思ったりする。
折角寝てるのに起こしてまで撫でる。
彼にとってはいい迷惑なんだけど、少なくとも僕は満たされる。
もしかしたらチャムじーさんも撫でられていい気持ちかもしれない。
それはあくまで推測の域を出ない。
このように、結局、
相手の気持ちなんか関係ないわけで。
僕らは他人のことを分かった気になって、
それを踏まえて自分が満たされるように何かアクションをしている。
別にチャムじーさんに限らず、
僕は僕に関わる人間すべてにそうしてきた。
結局言いたいのは、
誰かが、
“これはいいよ!すごいおすすめ!”
とか言って、自分に何かアクションをしてきたって、
それが自分にとって絶対いいとは限らないでしょってこと。
要するに思いやりとかは結局自己満足だ。
過激な感じに言うとオナニー。
つまり僕らは他人に対してオナニーばっかりしている。
何故ならオナニーはキモチイイからだ。
週3ってレベルじゃない、完全オナ中だ。
サルはオナニーを教えると死ぬまでやってるらしい。
全く同じ。
人間も大差ない。
思いやりがあるとか優しいってのも、
単に他人がこうされると嬉しいかも?っていうことを推測する能力に長けていて、
たまたまその供給が相手の需要に合っただけだ。
じゃあ全部自己満足なのか、と思うかもしれない。
でもそこはうまく出来ている。
よく考えなくても分かるけど、
オナニーはキモチイイ、つまり自分は確実に幸せなわけで、
そのオナニー的行為で、奇跡的に相手も気持ちよくなったら、
万々歳!
そしてそういう奇跡は意外と頻繁に起こっている。
相互理解の努力の成果と言える。
結局何が言いたいかというと、
偉そうにオナニー言いまくってごめんなさい。。。
追記:
たとえ自己満足であろうとも、思いやりは大事です!
言うまでもありませんけどね!
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