さて、
背中、肩、二の腕が、
それはもう、
ヒリヒリヒリヒリヒリ。
服を着ているだけで苦痛。
椅子にもたれたら痛いのなんの。
昨日少し風呂で無茶しすぎたかも。
日焼けしてるっていうのにいつもどおりタオルでごしごししたからさ。
熱湯で。
おかげで今ヒィヒィ。
たまにはこういうのもいいかな?と思ってる俺、
真のマゾ。
春都ですこんにちや。
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今日は朝ご飯が寿司でした。
オドロキー★
祖母が来たので回転寿司を食べにいったんですよ。
母なりの親孝行でしょうか。
しかし…
美味かった。
うーん、
寿司は美味い、日本に生まれて良かった。
一皿100円で、
いろいろあったなー
4人で35皿だけど、
俺15皿くらい食べたかも…
一皿二貫のヤツばっかり取ってね。
あー、おなか膨れた。
多分大学とかで下宿したら、
こんなことよっぽどじゃない限り出来ないんだろうなあ。
ああ、
そう思うと幸せだ。
そう思わなくても美味かったので幸せですけどねっ
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そういや今日は、
だぼだぼのジーンズとTシャツを着ようとしていて、
“出かけるけどそれでいいの?”って母に言われて、
急遽ワイシャツと色落ちジーンズに替えました。
白地に濃紺のバラ、
布地の薄い、
ワイシャツ。
直に羽織ると涼しくていい。
顔と肌が黒くなったので白と黒のこんとらすとがはえる?
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そう、
最近はあまり区別してませんが、
一人称で、少し遊んでいます。
大体は、“俺”を使います。
ひゃくぱーせんとうそをつくときは、“ボク”をつかう。
このときは、ぜんぶひらがな。
あと、
感情を抑えたいときや、
むしろ逆の怒っている時は、
“私”を使ったりします。
説明口調の時や自分の考えを書くときは大体、一人称は“私”で統一するようにしています。
何故こんなことをするか。
それは一人称をかえる事によって新鮮さが増すからです。
読者様はどうかわかりませんが、
書く方の俺にとっては、
一人称を少しかえるだけでまた違った書き方をしなければならなくなり、
頭を捻る。
要するに頭の体操ですよ、ハイ。
イメージとしては、
“私”:えらそう・ムカつく・カッコイイ・丁寧・硬い・砕けやすい・自信がない(半分嘘かもしれない)
“俺”:素・乱暴・柔らかい・弱い・芯がある・真実
“ボク”:超絶嘘つき
こんな感じです。
最後のヤツはほとんど使わないので、
なかなかレアですね。
というか使いたくありません。
ああ、
文も丁寧語で書くか話し言葉で書くか、
区別しています。
まぁこれは、
--と--の間で変わらないように気を付けているだけなので、
気分ですね、気分。
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少し面白いメールを頂いたので、
それについて思った事を書きます。
ああ、メールの内容はボカしますので。
私は、
あまり悩みがありません。
何故かというと、
物事にそんなに頓着がないからです。
諦めているわけでも、絶望しているわけでもありませんが、
私が私としてこの世に存在しているだけで満足してしまっているところがあります。
世の中の不幸な人々の存在を知り、
“私は関係ない”ではなく、
そんな不幸な人々のために自分が何も出来ないのなら、
せめてそのありがたみだけでも実感しておこう、
そんな考え方です。
だから私は幸せです。
私より不幸な人がいれば私が幸せなのは当然のことです。
ただ、自分の手で不幸な人を作り出すのはやってはいけないと思うので、
できるならば皆を幸せにするようなものを生み出していきたいです。
話がずれましたが、
悩みがないというのは、
悩むことが贅沢だと考えているからです。
生きるか死ぬか、それが決まる選択肢の前で悩んでいる人もいるのだから、
くだらないことでウジウジ悩むのはやめようと。
いえ、
悩むのは悪いことではありません、むしろ、
人を成長させる。
私はもっと成長したいのでもっともっと悩む必要があるのですが、
それでも、
悩もうと思わねば悩むことはありません。
おかげでストレスもあまり感じません。
こんな風になったのは、
少し数学的な考え方ですが、悩む分を先に悩んでしまったからだと思います。
悩む時にたくさん悩みすぎて、
今悩むことがなくなってしまったというか。
おそらく探せば悩みぐらいいくらでも出てくるとは思いますが、
そこまで深刻な悩みは見当たりません。
何度も言いますがこの世に絶望しているわけでも世界に諦めをつけたわけでもありませんから。
そんなこんなで、
悩みが乏しい私です。
そんな私には余裕があります。
人の悩みを解決してあげる余裕が。
しかし、
私は面倒くさがりです。
そして私は自己中心的なニンゲンです。
私以外の人は勝手に車に轢かれようが死のうがだまされようが知ったこっちゃない、
世界は私が中心で回っている、
これが私の基本理念です。
というわけで、
悩んでいる人はほっておきます。
自分で悩みが解決できるまで何も口を出さない。
良く言いますよね、
口癖で、
“私には何も言えませんが”って。
何も“言えない”のではなくて“言わない”のです。
言うと面倒なので言わないのです。
しかしこれはに一応、
面倒以外に口を出さない理由があります。
一時、
私は自分が何でも解決できると思っていました。
余裕がありましたから。
否、
あると思っていましたから。
昔の私は勿論、今より若い。
なので悩みにはいろいろなアドバイスをしたり、
余計なお世話をたくさんしました。
その結果、
1人、友を失ってしまいました。
その友は自分のことが嫌いな人で、
それでいて私のことが好きな人でした。
私はそれを、理解してあげれませんでした。
今、その友は永遠に私の元を去りました。
私の言葉はもう届かない。
余計なお世話のせいで私はかけがえのない物を失ってしまったのです。
それから、
私は余計なお世話をすることが少なくなりました。
ゴチャゴチャ言わないで、その人はその人だと認めようと思ったのです。
頭ごなしに否定しないで認めようと。
悩みも自分で解決するまではほっておこうと。
ほっておくから、
表向きは自己中心的なのです。
他人のことを思い、成長できるように自立できるように、
あえて放任する。
ですが、
世の中には構ってほしい人もいるでしょう。
ゴチャゴチャ命令して欲しい人もいるでしょう。
構ってくれと言えば私は構います、それこそ、
過剰なほどに。
話が変わりますが、
正論というのは反論ができなくてイライラがつのるものです。
他人に核心を突かれる、というか。
ああ、そうなのかと納得できればいいのですが、
納得したくなくて、必死で逃げている時に、
核心をつかれて正論を言われて無理やりその逃げている真実に、
直面させられたら…?
私は基本、
他人がどうでもいいので、
他人が辛い事実に直面して苦悩しようが全く構わないのですが、
嫌われてしまいますよね。
そんな、
傷をえぐるようなことを言われたら。
嫌われるといろいろと都合が悪い。
好き嫌いも乏しい私ですが、
それでも人には好かれたい。
その方が毎日を楽しく過ごせますから。
というわけで正論もあまり言わないし、
○○した方がいいんじゃないの、というのもあまり言わないようにしています。
もし言うとしたら、
その発言に責任をとります。
それが私のポリシーです。
要するに、
“悩むなら勝手に悩め、俺は窓際に飾ってあるお花さん”
構うとしても、
人を選ぶ。
気まぐれな猫が好きな俺ですが、
俺が一番気まぐれだったりする。
--
あ、
海で泳いだら肌がきれいになった。
黒いけど。
やっぱりさ、
海水に含まれているいろんな不純物で身体が削れるんだろうね。
特に須磨の海は汚いからな、
よく磨かれたんだろうよ。
ではコメント返信で。
>>enari
海はツナガッテイルンダヨ!!
何を言ってるんだい、
遊泳禁止区域じゃないとイケナイ遊びがデキナイダロ(by3M委員長)
>>わんわん。さん
あひゃひゃ、
“わんわんさん”って打とうとして“わんわんわん”って打っちゃった。
日焼けコワイ。
こんだけ焼けたら冬まで黒いなー…^^;
うむ。
相変わらず何が言いたいか分からん日記だ。
今日も平和だな。
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コメント
それただの犬だから。