“女”に“子”と書いて“好”き。
男の場合、
好、の字のとおり、
将来自分の隣に女と子がいてほしいという欲望の表れか。
女の場合、
自らにその人の子を孕みたいという思いが、
あるのかもしれない。
そんな好き。
好き、
好きってどういう意味だ。
俺はどういう場面に好きと言うだろう?
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ただ、
ただ漠然と好き。
そんな感情は、人付き合いをしていれば必然的にできてくる。
俺はそんなに人に嫌われるような性格ではないし、
割と気は長いし、
許容力も少しはあるほう。
どうしても生理的に受け付けない人とかは、
ちゃんとバリアーをはって避けているから、
好きな人としかお友達にはならない。
その好き、は漠然とした好きではないのか。
でも、
漠然とした好きは、
あんまりすきじゃない。
広く深いお付き合いをしたがる俺は、
思い込みが激しい面もある。
燃えやすくて冷めやすく、燃えにくくて冷めにくい。
だから、
すぐ勘違いしてしまう。
好きと言う言葉がとても好きで、うれしくて、
深く考えすぎる。
だから、
別に俺の期待している意味ではない“好き”を、
期待してしまう。
結局、
自分で自分の首を絞めることになるのだけれども。
俺に大ダメージを与えたければ、
甘い蜜を少し、
わざとらしく、
適度に香る程度にこぼす。
蜜をもらえるのかと、
期待に胸を膨らます俺の目の前で、
その蜜を全部飲んでしまえ。
期待を裏切られ、
飢えと痛みに苦しみながら泣き叫ぶ俺のできあがり。
好き、なんて言わなかったら、
楽しい春都さんは続く。
内に秘めた思いを、忘却したふりをして、
壊したくない関係を作るのも悪くない。
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好きには種類があると思う。
そばにいるだけで、満たされる、
そんな好き。
一緒におったら楽しい、癒される、
そんな好き。
友達として、好き。
精神的快楽が得られるから、好き。
肉体的快楽を得られるから、好き。
どれも好きといいあらわせる。
それが困る。
好きだけだと、
どういう意味で好きなのか、わからない。
お友達という意味で、
女の子に好きと言われてみる。
ちょっと凹むだろう。
お友達、それ以上の関係を望む気持ちは捨てられないから。
人を好きになることは、
別にかまわない。
どうせ他人と付き合うならば、楽しく付き合っていきたい。
でも。
一線は守らねばならない。
好きはいい。
好きは別に悪くない。
好きの意味がわかりにくいのが悪い。
だから好きは悪い?
わからない。
で。
人生の先輩に聞いてみた。
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『うわ、それうぜー』
「・・・;;」
『好きでそれが何?って話じゃん。』
「え?」
『好きだから付き合いましょう、とか。』
『好きだけじゃあだめ。』
「ああ、うん・・。」
とのことでした。
確かに。
好きなので付き合ってくれ。
好きなので今晩・・・(?)
これだと、
好きなので○○の○○だけを考えて返事すりゃいい。
その他の余計なことは考えなくていいから、
すごい楽だし、
無駄はない。
うん。
さすが。
見直した。
恋愛王なだけあるわ。
それだけ失恋の数もゲフ
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というわけで。
別に好きに罪はない。
ただ、
無知は罪だ。
でも、
無知をせめることはできない、
なぜかって、
時間の使い方は人それぞれだから。
今、
言い方がまずいのがわかった。
これはすごいこと。
学習である。
次の機会にばりばり使える。
うん、
だから、
そんな悲しい顔しないでください。
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好きが残酷なのはわかった。
で。
何?
コメント
使う人しだいの意味合いになっちゃうね。
なんか「普通」って言葉と近い使い方になっちゃてることも
あると思うのです…。
言葉ってのは、人間の想いと同じに生きて生まれるものだから
話言葉にしても、こういう書き言葉にしてもその人を写す鏡
のようなものなのかも。
「孕む」も 「(男性)の(乃)子」で孕む。
うまくできてますね。
結局言葉なんてどうでもよくて、相手が何を伝えようとしてるのかを考える。
それが一番大事なんじゃないかな?
言葉はあくまでも伝達手段の一つに過ぎないから。
英語ではSix
ドイツ語ではSechs
スペイン語ではCincoって言う。
だから、春都チンコ。
「乃 」
ダヨ
||
イウ
は、元々「乃」だけで、胎児の象形でした。
その後、「乃」が、「すなわち」等の女児に用られるようになったので、
それと区別するために子を付した。
お言葉ですが、
乃は、男という意味かどうか、怪しいですね。